学祭初日.

4時間くらいずっと話しを聞いて問答したり,キーになるところは均衡のところだが,tanh(θh+..)の導出と近似の部分を聞きたかったなあ.インプリは十分すぎるほどリッチで素晴らしいし,博士論文の見本のような研究.あえていうなら,オレなら適用事例は1つにしぼって,効果分離かパラドクスに絞って作用概念の展開を厚くしたかも.あとは少人数で実験的なゲームでプロセス解析するとか考えるかもしれぬ.こうやっていろいろ4時間も議論して楽しめる博士論文というのはいいなあ.と思った.

知事になりたい.という人と何人かあって話を聞いたが,確かに地方自治というものを単位に考えていくしかないのかもしれない.分権委員会にいろいろ文句はあるだろうが,そういう方向にふれていくのだろう.だけど学会も大学も企業も個人もコミュニティだって,さっぱりその準備ができていないということだろう.

いろいろ世の中が不安定になってきていると思う.140年ほど2サイクル続けてきた発展志向のフェイズが終わろうとしているからだが,欧州のような社会保障重視にふれるのか,中国のような発展志向をもう一回続けるかということだろう.発展志向をやめるということは,道路に限らず,いろんな仕組みを根本から変えるということだ.米国はそんなことはできない.国の成り立ちがそうなってはいない.日本はまだ可能だろうが,ただ既存の権力構造にそいう決断ができるような空気はないので,革命ということになる.ミッテランはよくやったと思う.官僚も政治家も国民もしっかりしていたし,何よりコミューンにその根拠があった.

村上がチェーホフがサハリンに行ったときの文章にインスパイアされて書いている.

「ギリヤークじんはドウロからはなれてもりをあるいたほうがラクだ.ドウロをあるくにはあるくことをはじめからつくるなおさなくてはならない.あるくことをなおすとほかのこともつくりなおさなければならない」

ギリヤーク人とはチェーホフがサハリンでみたアイヌであり,コロボックル的なものだとして,佐藤さとるはそれを毒を抜き慈しむように描いたが,村上は毒として外挿することで現代を語ろうとし,宮崎は非可逆な遠い過去と未来のファンタジーを描くために寧ろ文明を毒々しいものとして挿入した.現実は物語とは違う.時代がどちらに振れるか,個人としてどう向き合いどう関わるかという時代感なのかね.