ゼミやって,経済学部のセミナーへ.青葉山な人の発表がおもしろかった.エ→ジェント・オ→クションを実装するにはトランザクシЕンが不明なのが弱い.弱いというのは制御可能性が評価できていないということなので,リヤポιフ関数を使った収束性判定のところは解析的にはいいとしても,スケール評価できていないのが勿体無い.実装できるかどうか思案.
本郷側で新しい研究MLを立ち上げたが結構トラフィックが多い.旧:2年間で1087に対して,新年度20日間で早くも100突破だから(トータル人数は変わっていないはずだから)4倍くらいのスピードだな.テレビ会議を導入したこともあるが,愛媛と京都と本郷でわりと違和感なく研究ができているような気がする.没入してる時間と他人とコミュニケーションをとる時間の配分が難しいんだけど,普段気がちりがちな人が,みんなでやってる感じが出つつも没頭すべきとことはしていて,案外こういう体制はよいのかもしれない.Skypeスキヤキ(オレ造語)とか盛り上がっていた.
研究というのが,ドンドン仕事の仕方(流儀とかいいたくないけど)に依存している気がする.こういう時代なので(計算機やカメラやネットや携帯や電子文献やDBやプログラムは潤沢だし,研究会も数も多い)研究結果なんていうのは結局誰がやっても大きな差は出ない.何に関心を持つかという感性の部分,あとは研究の仕方の部分が以前よりも重要になってきている気がする.研究の進め方,コミュニケーションのとりかた,目標の設計方法は研究室の文化のようなものなので,もう少しいろいろ柔軟に(実験的に)考えてみたい.ケンチク的徒弟制度,ケイザイ的個人主義とは違うスタイルがあるんだろうな.
までも,ライフハック的な方法っていうのは,んなもんに拘っても本末転倒というか,なんだかつまんない話である.あくまでテーマにあった方法論が自然に出来上がればいいという程度の話である(純度が高ければだけど).主題が何か,何に関心があるか.がもっとも根源的で,そこに辿り着くために必要な道具(方法論)は主題に本質的に迫ろうとすればするほど自然にだんだん揃っていくのだろう.
Because it is there.
「なぜ山に登るのか」と尋ねられ,「そこに山があるから」と答えたのは,人類で標高8000mの壁を初めて破った登山家ジョージ・マロリーだが,彼は1924年登山中に行方不明になったまま帰らぬ人となった.今の装備があれば無事帰れたのにかいうヤツもいるんだろうし,75年ぶりに氷の中で発見されたとき,馬鹿なことをと笑ったヤツもいるだろう.

しかし,ホントにそうかね.道具なんかなくてもやはりマロリーは登っただろうし,答えるのもアホくさいほど,当たり前の原則がわからんやつにはわからないだけなんじゃないかね.と再び思ってみたり.