卒論発表会.なんかまあこういうものである.

卒論生さん抜きで,年輩な学生さんと研究の話など.

まあ,たぶん,,苦しんだ人の方が伸びるのではないか.とかという情緒的な体験談はともかくとして,最初のうち,「評価尺度」を明確に意識することは野球選手とかサッカー選手とか芸人と同じなんだから重要ではある.自分を評価するのは「他人」でしかないというリアリティをどこまでもてるか.打った打てない.勝った負けた.そういう厳しさを心地よいと思えるか.無論そんなことだけではない根本的な何かがあっての上でだけれど.

口でなんといおうがアウトプットを出さないことにはプレーヤーはプレーヤーとして認められない.なにも表現しないうちから自分とは何かを考えても意味が無い.アウトプットのないあなたは何者でもないが答えである.出力の積み重ねだけが事後的に自分という存在の特性を規定する.

自分自身はこうだと決めること,あるいは表明してしまうことは確かに怖い.のだろう.自分をこうだと決めた人は批判を受ける.その表現は意味不明だとか,ぜんぜん進んでないじゃんとか,バカとかださいとかぜんぜんダメじゃんとか,弱ければ面と向かって,強ければ陰で兎に角いろいろ言われる.しったかぶりをして滑稽だとあざけ笑われる.そいうのは,ワイドショーやニコニコをみて陰であーだこーだと当事者でもないのに囁き突っ込むsweetsライフハックの如くとても容易だ.

人間は向かい合ったら1対1である.でもまず自身と向き合い,たとえば無意味に十年後の自分を決めてみる.でも今の自分はそこからはるかに遠い.そんなことを言う自分は滑稽を通り越して痛いだろう.でもそこからみんな始めていったのだ.無意味なプライドはドブに捨てて,笑われながら,批判を受けながら.そして今も続けている.そういう話である.