完徹.線を何度も引いた.

その論理は,制約条件に対応した論理だ.

考え得るシーンが本当に万全なものであったのかといえば,そうではなかったから,一見して整理された問題に対して,設計のポイントを対応させただけで終わっていたのかもしれぬ.条件を満たしているかのように示される空間というのは,説明した言葉の中で説得力を持ち得てたとしても,実際の空間に対する市民の種々の反応は,やはりもっと直感的なものだろうし,耐えうるものにならない.

直感的というのは,こちらが話す条件なんていちいちチェックしていない上に,自分の条件を満たしてなければ即赤点になるし,おまけに,こことここはいい出来だからといって点数を上乗せしてくれるわけでもぜんぜんないということだ.このことが(素直に反省してしまえば)どこかわかったようにやってしまった公共空間の設計協議をきわめて難しいものにしてしまった.

直感的な好みに対して,丁寧なコミュニケーションで解空間を狭めていくというような近似解の見出し方をとった設計過程もあるだろうが,公共空間では,すべての人とそういうコミュニケーションをとることは難しい.時間がかかりすぎるのだ.そこで精度のいい思い切った抽象化が重要になる.ただし制約条件ははずさないで.しかし,,,結局のところ,それはやり方の問題であって,根本的な造形を,システムとしての,スペースとしての,思いを受けと得るだけのものとしての,,決定的に欠いていたということだ.

日々に輝きのなくなってしまったその地域に,いや日々の輝きなんてという話はあるかもしれないが,いやしかし石川が都市計画を行う際にきわめて強く重視していた盛り場の在り方のように,やっぱりその地域におけるハレというものの在りようを,そしてささやかな日常をもう一度丁寧に読み取って,これからの50年に期待しえる何かが必要であった.

地域において,くすんでいく,見捨てられていくような何かを,もう一度リセットするためには別の強い物語の力が必要である.確かに空間だけでは難しいのかもしれない.しかしせめて,このとき,ただ今ここにある無意味を維持しようとする様々な記憶の断片を,別のかたち,別の意味のものに読み替える力を供給し得る空間をつくりだしたい.