結局のところ,何かを目指してきたのだとしたら,立ち居地であり,名誉であり,金であり,あるいは文明的なものであり,文化的なものであるかもしれないが,考えることをある場所でやめ,わかりやすいものをわかったような顔をして求め,しかし兎も角にそういうものが行き着いて,突き当たり,すりかわって,坂の上の雲と思えたものは喪失し,

そしてなお雑巾を絞りきるように,瑣末なことをしぼりつくし,奪いつくし,役に立つものだけが有益だと,剰余のない考えにすりかえ,たとえばK間という女性評論家だの,高校生ウルトラクイズの司会者だの,NOといえといい,アハ体験だの唯脳論だの,そういう細切れな寧ろ専門家に属する人の瑣末なまぼろしが繰り返し,ただ消費され,

いうほどの貧困などなく,だから形式的となり,怠惰を生み,思考は形骸化し消え果て,せいぜいつまらぬ物語にもならぬ物語をそれぞれが断片を求め,消費し,緊張感もないまま,あっちにふれたりこっちにふれていく個人となり,社会となった.そのことの喪失.そのことの幸福.そのことのまぼろし

かつて「精神」はありとあらゆるまぼろしを見せてくれた.その幻を通してしか世界を知ることができなかった.しかしもっとも恐ろしい真実は,「精神」というもの自体がまぼろしだったということだ.真実を知ることは残酷だ.どういう意味で「精神」という言葉を使ったかは野暮なので書かない.しかし.

部分を理解しようとしたとして,やはりそれだけでは不明で,世界は無限に広く美しく残酷で,だからわからない,だから足りない,だからもっと知りたいと願い,高く,高く,広く,深く,深く果てしなくどこまでも描き,理解の淵の淵まで降り続けるに違いあるまい.まぼろしをふりきるために.

生きて行くのに真実を知る必要はまったくない.ぬくぬくとした場所から,すりかえたまぼろしを語り,威勢のいい掛け声をあげ,気が向けばその場限りの同情を与え,欺瞞にひたることはなんと幸せだろう.真実を知ったって大して良いことはない.宗教に心の安穏を見いだす人が真実を知る必要がないのと同じことだ.目の前に真実を突きつけられて喜ぶ人はいない.実生活の上ではそのまぼろしの上で生きていても何の問題もないばかりか,その方がめちゃめちゃ生きやすい.しかし.

走りに出たが雨に降られてびしょびしょだ.