GW中らしいが無視してゼミ.数名の学生さんが出てきた.

ゲームの話は,,ありきたりな方向性ではまったくつまらない(というかもはや満足できない).そのパラメータがどこからやってきたもので,どこに行こうとしているのか.ということの理解の淵まで辿り着こうとして投げた石かどうかということを問うている.今のところただの与太話に過ぎない直感を,しっかりとした筋道をたてて実証し実装まで持ち込むことを求めている.

構造なのか意識なのか,全体なのか部分なのか,その連鎖の構造に関心があり,もうすこしだけ具体的にいえば,ネットワークが切れることによって効率が高まるというパラドクスがあって,強い2つの紐帯の間をつなぐ細い線はいっそきってしまったほうがいいというような話だが,しかしその話の中で細い糸は意味論的にどう解釈可能なのかということである.こういう考え方はアインシュタイン型の論法である.5年くらいかかる研究だろうと思う.

理論偏重という話が,どうも学会内にあるらしく,まったく私はそういうことを感じていないし,精度のいい理論がない状態が問題であるとしか思えない.思えないし,そういうことを2年前学会の委員会でも話したが,そのとき会議の場にいた理論系の人は私一人で,あとは全員実践主義者であった.しかし実践などということを本当にやっていた人があの中に何人いたのだろうか.いや実践ということの定義はいかなるものなのか.問題をたて,方程式をつくり,一般解を求めることが理論家の仕事であり.一般解でもって空間を眺めることで,様々なことが果たして本当に見えてくるという立場に立つ人たちのはずだ.

そこでは,最初から特殊解を求めたのではそのほかの解の所在はわからないし,解の求め方は洗練しないに違いないだろう.そしてその横にたつ実践家と呼ばれる人間に本当に必要なのは特殊解を出した経験ではなく,知り尽くした一般解のカスタマイゼーションの方法論なのだと思う.そういうことによってしか(歩留まりがよく且つ)精度の高い実装はできっこない.そして結局のところもっと深刻な問題は,私たち自身が,新しい問題をたて,方程式をつくることを避けているという点にあるのではないだろうか.この部分について,知りえる限りを知り尽くしてなおふるう全人格的な知勇に関する問題であろうと考える.

夜半にメイル.

人に与えられた痛みは,自己の過失によるものであれ,理不尽なものであれ,大きなものであればあるほど,対処不能なほどにどうしようもない自分と向き合うことを意味する.砂をかけるようにその傷を消してみたところで,その痛みはいずれ再び姿を顕し自身を追いかけてくるだろう.そのこと自体と徹底的に向き合わぬ限り本質的な解決はもたらされない.しかしそもそも本質的な解決がありえるのだろうか.知りたいと願ったところで知りえるのか,描きたいと思って描けるのか.結局のところそのような痛みに対する唯一の対処法というのは,自分で立つということ以外にありえない.そして自分を自分自身でこの場所に立たせるものは何かという問題に辿り着くのだ.かろうじて.