「それを支えているシステムであり仕組み」についていえば,オレは,それを生み出して続けてきた有機的な仕組みに関心があり,その有機的な仕組みこそが日本という方法そのものであると思っているからこそ(ちなみに日本の方法と日本という方法は違う),その有機的な仕組みに対するよりよい理解の延長線上に,見通しのよいモデル/デザインの手法論を求め,それを実践し証明したいと希望している.然しそれにも拘わらず,なんにもうまくいかない.うまくいかない理由はわかりきっているが,その結果までも日本という方法に依拠させてしまうならば,実に救いがない.そして救いがないことならわかっていたが,であれば,何をそんなに懸命にやっているのだろうかと思った.

たとえば,目の前にいる相手に対して何か伝えたいと思い懸命に言葉を発するんだけれど,オレの言葉はまったく相手に届いていない,話していてそのことがはっきりとわかることがある.そして後に,矢鱈に一見整った文章がセンドされてきたとして,しかし結局,補完的な行為としてのテキストは,往々にして一見間違いのないことを言っているように見えて,目の前に対峙していた相手に向けられているのだけれど,どちらかといえば自己中心的な内容を含んだものとなりやすい.そしてそのこと:非同期であるところのことに対してオレが感じる空虚さや軽々しさは,たぶん現実と素直に向き合えなかったことの代償として生じてて,それは目の前にあったはずのリアリティを一旦留保したことによって始まってるんだろう.一寸ナイーブかもしんないけど,同じ時間,同じ場所にいたことで広がる無残な深い溝というものがあって,たとえ無防備であったとしても素直に思ったことをぶつけること,そこから誠実に何か汲み取ろうとすることが大切じゃないかと思う.

しかし,それでもなお,,同じ場所,同じ時間のうちに,懸命に何かを汲み取ろうと尽くしたとして,そんでもどうにもつながらない場合がある.言葉を発するなどできないし,無力であって,それは自分の能力の無さや,経験不足や,筆舌しがたい目の前の相手の辛苦を知ったとき,なんの言葉も発することができずただ傍にいることしかできないというようなこともあるだろう.だからそういう時,その事実を前にして自分の中でそのことをどう転化させるかといえば,知らなかったことにしたり,自分勝手に乱暴にわかったようなことを言ってみたりすることは簡単なのだけど,そんでもどっか何かが違うと気になって,きっと時間をかけて丁寧に言葉を探すに違いない.そうして得られた,時間をかけることでようやく初めてみつかった言葉は,確かにどこか自分の内側に向かっていることも多いけれど,そういう行為の結果として,初めて見えてくることもあるだろう.いやきっと多くのことは,言葉などでは語り尽くせず,しかしそんでも,今まで見えなかったし見ようともしなかったことに対して改めて自分が向き合い,今の自分では至らぬこと足りないことを埋めようとしてまで,敢えてそれを見ようとするとき,ようやく初めてどこか感じられるものなのではないか.自分の経験や才能や能力によって予め用意していた言葉,準備されているセンテンスをただその場にあわせて相手にぶつけるような軽々しいコミュニケーションは確かに便利だろう.だけど,不器用かもしれないがいちいち自分の内面に問いかけ,必死で搾り出した数少ない言葉が大切なことだってあるのではないか.きっと,そういう辿り着き方が重要なのではないか.どうでもいいことかもしれないが,そう思った.