沖縄や北海道,ポカラやアイラ,辺境というか国境に近い場所に好んでよく行くのだが,日本の主たる動線を移動していると,下手をすると朝から夜までマニュアル通りのサービスや台本通りの会話にしか触れていないことに気づかされる.国の中心のような場所ばかりを旅していると,緩やかに安全にフュージョン(融合)され洗練されたものに触れ続けることになって,なんというか,,うまくいっているときはいいのだけれど,一旦サービスのパターンが崩れるとどこかイラっと感じてしまいびっくりすることがある.

もちろん,予定調和は大きなシステムを動かしていく上では必要不可欠なのかもしれないが,(大げさな言い方かもしれないが)永田町や霞での議論にも同様な一昔前の現実を基本にした論理の脆弱さだけが目につくような気がする.

わけのわからない困難で異質で受け入れがたいものと常に対峙した経験がないのではないか.自分が見たことのないもの,作り上げたことのないものに対しては皮膚感覚が生まれないのは当たり前のことだけれど,そういうふわふわしたところからは,やればできる(はずだ),できないのは相手(問題)のせいだ,というような意味不明な責任の所在すらはっきりしない精度の低い議論しか生まれてこない気がする.

打ち合わせの予定をぜんぶキャンセルして,行ってきた.山の稜線の向こうの真っ赤な夕焼けがきれいだった.