パネルの司会.行政知とか専門知があるというのは結局バランスシートの感覚をもって制度やある種の表現精度の選択ができるかどうかだと思う.楽しいとか盛り上がったとかそういう感覚だけで語ることができたらどんなに楽だろうと思うけれど,結局そうではない部分の話の精度をあげない限り,デザインなんてできない.

住民運動のようなものを嗤うのも,モデルを嗤うのも同じ程度のものだ.何もしないで,勝手に嗤い,勝手に捨て,しかし,みんな本当は知らないだけじゃないか.本当はできるってことを.やれば何でもできるなんて確かに幻想だ.しかし,でもやっぱり,やればできるということは信じるべきだ.