日本書紀によれば,(十七条憲法により蘇我馬子の権力を封じ込めた)聖徳太子の死後21年が過ぎた643年,馬子の子である蘇我蝦夷(そがのえみし)は,聖徳太子の子の山背大兄王(やましのおおえのおう)と一族をほろぼし,朝廷の全権を掌握した.これにより,聖徳太子が目指した冠位十二階などの能力主義を前提とした天皇中心の政治は完全に崩れ去った.翌冬,蘇我蝦夷は甘樫丘東麓に大邸宅「丘の宮門(みかど):帝(みかど)とかけていて,かなり傲慢なネーミング」を築き,蘇我氏の権力は絶頂に達した.
翌655年,中大兄皇子は,蝦夷の息子である入鹿を宮廷で暗殺し,蝦夷はそのことに絶望し,翌日自宅に火を放って自害した.いわゆる乙巳(いっし)の変である.
今回見つかった邸宅跡地は,甘樫丘(あまかしのおか)の谷筋に位置するので,丘の上に立てられた蝦夷(父)の邸宅ではなくその子入鹿の谷の宮門の一部であろうといわれるが,興味がつきない.

明日香村の甘樫丘か.