旧約聖書には「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」という一説がある。イスラム教をはじめとして、一神教の砂漠の宗教では他の偶像崇拝を拒絶している。聖徳太子を写したという法隆寺夢殿の観音像は、このような仏像は他にないといわれる。それは像が背負う光背が異様にも太い釘で後頭部に打ち付けられており、自らを異形なまでに傷つけているためだ。なにを祈ったのか、何を希み、何を願ったのか。そうして、かろじて救いを何かに求めるのはそんなにいけないことか。
心性の違いはどこからやってくるんだろう。人それぞれだろう、そんなのは。詮無きことだな。